瞑想の実践に関する質疑応答
- AHYMSIN Japan
- 2025年12月23日
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更新日:6 時間前
スワミ・ラーマ(『Meditation and Its Practice』より和訳)

なぜ「瞑想音楽」は、瞑想を深める助けにならないのですか?
音楽は外的な刺激であり、感覚や心を内側ではなく、外側の意識へと向かわせます。バラの花や穏やかな音楽といった心地よい対象に注意を向けることは、確かに気持ちを落ち着かせますが、内面のより深い意識状態へと導くものではありません。音楽は別の時間に楽しむとして、それを瞑想と混同しないことが大切です。
お香やロウソクを使うことは必要ですか。役に立ちますか?
同じ理由から、瞑想中にお香を焚くことは勧められていません。香りや煙が注意をそらす原因になるからです。雰囲気づくりとして、瞑想前に少量のお香を焚くのは構いませんが、瞑想を始める際には消すことを勧めます。
また、ロウソクの揺れる炎も、目を閉じていても集中の妨げになることがあります。揺れの少ない良質なロウソクであれば気になりにくいかもしれませんが、そもそも意識を向ける対象はロウソクではありませんので、外側の光は必須ではありません。
瞑想の技法や伝統が多様なのはなぜですか。自分に合う方法はどう選べばよいでしょうか?
すべての真正な瞑想の伝統は、学ぶ者が自らの最も内奥の本質を知ることを助けることを目的としています。一見すると異なるように見えるこれらの技法は、山の頂へと続く多様な登山道にたとえることができます。道中の景色はそれぞれ異なりますが、山頂に到達したときの究極の体験は同じです。
(本書で述べているように)ある瞑想法はマントラを用いますが、他の伝統では、呼吸への集中を中心とした異なる実践が用いられることもあります。どの実践を選ぶにせよ、大切なのは、それを規則的に、そして誠実に続けることです。人にはそれぞれ性格や傾向、理解力や適性が異なるため、適した技法も異なります。一つの方法を学び、一定期間にわたって継続的に実践し、その実践によって自分にどのような変化や反応が起きているかを観察してください。
呼吸への気づきだけを用いる瞑想の実践は、それだけでは十分とは言えません。なぜなら、実践者は意識的なマインドだけでなく、無意識のマインドをも超えていくことを学ぶ必要があるからです。ある伝統は実践者をその先へと導きますが、他の方法は呼吸への気づきの段階にとどまるものもあります。快適で安定した姿勢を整え、そのうえで呼吸に意識を向けることは確かに重要です。しかし、人間は思考する存在でもあり、マインドのさまざまなレベルと向き合うことを無視することはできません。したがって、マインドのあらゆるレベルを超えていくよう導く技法こそが、より高次の瞑想法であると言えます。私たちは他の瞑想法を否定しませんが、完成されたものもあれば、そうでないものもあります。
やがて実践者は、自らの本質的な在り方、すなわち意識がさまざまな段階やレベルを通して流れ出てくる源に気づく必要があります。意識の中心は、身体や感覚、呼吸、そしてマインドをも超えたところにあります。ゆえに、自分の最も内なる存在を体験することを妨げているすべての障壁を取り除くことへと導く、包括的な方法こそが、最良の方法であると言えるのです。
技法が数多くあるだけでなく、ヨーガには献身の道や行為の道など、さまざまな道があります。では、どの道を選べばよいのでしょうか。
道は多様であっても、目指す目的はただ一つです。内側に満足感と確かさをもたらす道こそが、あなた自身の道です。自分にとってどの道がふさわしいと感じられるのかを、丁寧に見極めてください。
瞑想の時間を計るために、目覚まし時計を使うべきでしょうか。
最初の段階から、自分は決めた時間に起き、10分、15分、あるいは20分間瞑想を行うのだと心に定めることで、サンカルパ・シャクティ(意志の力)を養うことを学ぶべきです。心は、あらゆるものの中で最も優れた「時間を計る力」を持っています。実践を重ねていくうちに、瞑想の時間になると自然に心があなたを目覚めさせるようになるでしょう。特定の時間に起きて瞑想すると決めているのであれば、本来、外的な道具は何も必要ありません。
一般的に、瞑想そのものの時間を計るために目覚まし時計を使う必要はありません。瞑想中は、睡眠状態とは異なり、時間の経過に対する意識が完全に失われることはないからです。また、静かで落ち着いた瞑想を、突然鳴り響く目覚まし音で終えるのは、あまり心地よいものではありません。時間が気になる場合は、視界に入る場所に時計を置き、必要に応じて確認できるようにするとよいでしょう。あるいはそれ以上に、時間的なプレッシャーをあまり感じずに済むよう、瞑想の時間帯そのものを工夫することをおすすめします。たとえば、朝の早い時間帯や、用事や責任をすべて終えた後の夕方・夜などが適しています。
瞑想中に脚が痛くなったり、しびれたりした場合はどうすればよいでしょうか。
このようなことは、実践者が日常的に十分な身体運動を行っていない場合によく起こります。しかし、瞑想の前後にストレッチなどの軽い運動を取り入れるようにすると、数日後には違いに気づくでしょう。それでも不快感が続いたり、脚がしびれてきたりした場合は、無理をせず、数分間脚を伸ばしたり、姿勢を変えたりしてください。筋肉を軽くもんだり伸ばしたりして、脚が楽になったら、再び元の姿勢に戻ります。定期的に座る習慣が身についてくると、快適に座っていられる時間は徐々に長くなっていき、数か月もすると、最初の頃に感じていた身体の感覚とは違ってくることに気づくでしょう。
現代の多くの人は、床に座って過ごす時間がほとんどないため、最初のうちは、いくつかの姿勢が不快に感じられるのは自然なことです。しかし、瞑想の姿勢に慣れてくるにつれて、それらは次第に自然なものとして感じられるようになります。床に座ること(あるいは他の新しい身体的な実践)に身体が適応するまで、最初は多少の困難があるのが一般的ですが、決して無理をして限界まで我慢してはならないということを忘れないでください。瞑想の実践の前後に身体運動を行うことは、血行を良好に保つうえでも重要です。
瞑想がうまくいくときもあれば、雑念だらけになるときもあります。このような状況には、どのように対処すればよいでしょうか。
マインドが日常の心配事や欲求でいっぱいになっていると、それが瞑想の妨げになります。そういうときは、注意を引こうとして浮かんでくる思考を、その都度手放していこう、という意志を持つことが大切です。 そのためにも、瞑想に入る前に気持ちをしっかり整え、呼吸に意識を向けて意識を高めておきましょう。どのような思考が、無意識のマインドである功罪の倉庫から、意識的なマインドへ上がっきても、それに振り回されないと決心しましょう。そのイメージや、感情、思考にとらわれず、思考の過程をただ観察することができるようになると、良い思考であっても悪い思考であっても、それらに乱されることはなくなります。
瞑想中に、身体がかゆくなったり、頭が片側に傾いたり、あるいは、あくびが出る、目に自然と涙がにじむ、飲み込みたくなるといった症状が起こることがあります。このような妨げには、どのように対処するのが正しいのでしょうか。
このような妨げは、瞑想の初期段階によく起こるものです。食べ過ぎを避け、心を余計なとらわれから解放することを学び、そして身体の状態を観察するようにすれば、これらは比較的容易に収まっていきます。
瞑想中に、なぜ恐れを感じることがあるのでしょうか。
この問題は、自分の中にある特定の欲求や、抑え込んできた思考に気づくことを避けてきた人、また、自分の思考の過程を見つめ、理解しようとすることを望まず、自己認識から逃れようとしている人に起こりやすいものです。
実際のところ、瞑想の間は常に安全な状態にいます。なぜなら、人は自己の最も内奥にある、変わることのない本質に近づくほど、より安全になるからです。確かに瞑想においては、隠れていた動機や抑圧されていた感情が意識に上ってくることがあります。しかし実践者は、内的な強さを養い、それらが意識に現れることを許し、そのうえで、それらを手放すことを学ぶべきです。そうすることで、それらが心を引き続き乱すことはなくなります。誠実な努力と、揺るぎない決意をもって瞑想を継続的かつ規則的に実践していくことが、最終的には、このような障害を乗り越える助けとなるのです。
ジャパとは何ですか。また、それはどのようにして瞑想を深める助けとなるのでしょうか。
ジャパとは、自分のマントラを心の中で絶えず繰り返す実践のことです。これは、意識の中心への気づきを保つために、心を一点に集中させる有効な手段となります。ジャパは、あらゆる状況や環境の中で、いつでも行うことができます。ジャパの最も優れた方法の一つは、舌を動かさずに、マントラを静かに心の中で唱えるやり方です。マインドには、望ましいものも望ましくないものも含め、世の中の出来事や対象について絶えず考え続け、とらわれてしまう性質があります。ジャパをし続けることで、マインドを忙しくさせておくことは、この傾向を和らげるうえで大きな助けとなります。やがてジャパが、アジャパ・ジャパ(努力を要せず、自然に、ひとりでに続いていく状態)となると、内側に安らぎや喜び、平穏、そして幸福感が生まれます。ジャパが、単なる機械的な反復ではなく、感覚や気持ちを伴って行われるとき、それは実践者がマハーバーヴァ(深い高揚感、至福の状態)に至る助けになります。
世界のあらゆる精神的伝統において、何らかの形のジャパが勧められています。ジャパは、瞑想を実践する人にとって、非常に重要な支えであり、助けとなるものです。ジャパは、ロザリオに似た数珠であるマーラー(数珠)を用いて行うこともできますし、完全に心の中だけで行うこともできます。マーラーを用いる場合は、マントラを一回唱えるごとに、一珠ずつ指で送っていきます。
瞑想と心の中で行うジャパとの違いは何でしょうか。
ジャパは、絶えず寄り添う伴侶のように瞑想者を導き、沈黙に至るまでの途中に立ちはだかる、あらゆる障害を越える助けとなります。沈黙は、あらゆる達成の中でも最も深いものです。それは、完全に意識が保たれたまま、内なる本質―すべてに共通する自己、普遍的な真理―を意識し続けている体験です。
食事や性行為は、瞑想に影響を与えるのでしょうか。
もちろん、これらの要素は瞑想に影響を与えます。そのため、マインドが常に性的な思考にさまよい、執着するような状態を助長すべきではありません。性は、ある年齢までは生物学的・感情的に必要なものですが、その欲求は適切に調整される必要があります。それが人生の中で最も重要で支配的な目的となってしまってはなりません。
食事について言えば、瞑想の実践者には、過度に調理されていない、シンプルで新鮮かつ栄養のある食事が最も適しています。ただし、栄養価の高い食べ物であっても、食べ過ぎは健康にも瞑想にも好ましくありません。また、瞑想を、空腹の状態や、食後すぐの状態で行うべきではありません。
いつ指導者が必要だと分かり、また、どのようにして指導者を見つければよいのでしょうか。
探求者が、外界の対象が一瞬一瞬移ろいゆく、はかないものであることを見つめ始めると、それらによってもはや完全に満たされることはないと気づきます。やがて人生の目的を問い、自分自身の内的な状態を理解しようとし始めます。その過程で、多くの探求者は賢者たちの言葉を学ぶようになります。そして、まさにこの探し求める時期に、導き手の必要性を感じるのです。「探求者が、心の奥の真理を知りたいという燃えるような願いを抱き、誠実に求め、十分に備えが整ったとき、師は現れる」―これは古くから伝えられてきた言葉であり、真実でもあります。
すべての探求者は、本物の指導者とは、常に利己心を持たず、探求者の心の状態を理解し、それに応じて導く存在であることを知っておくべきです。師を探し回るのではなく、まず自分自身を整えなさい。そうすれば、師は自然に現れます。利己的で支配的であったり、弟子を利用するような指導者が、真に誰かを導くことは決してできません。一方で、無私で経験があり、実際に瞑想を実践している指導者は、探求者がこの道を歩む準備が本当に整っているかどうかを見極めることができます。確かな指導者との出会いは、神からの恩寵として与えられるものなのです。
私は探求者に、師を求めてあちこちを駆け回るのではなく、自分自身の心・行為・言葉を観察し、自らを整えることを勧めます。なぜなら、誰の内にも指導者が存在しており、それこそがその人自身の良心だからです。内なる師の声を無視しているなら、外にいる師も何の役にも立たないでしょう。良心の声に耳を傾けることを学ぶことは、精神性の道に向かうための最も大切な準備の一つです。
ときに自我が前に出て、私たちを誤った方向へ導くことがあります。マインドは多くの巧妙な仕掛けを持つ魔術師のようなものですが、誠実な探求者は、内側からの導きが良心から来ているのか、それとも迷いや自我に基づくものなのかを、やがて見分けられるようになります。私は探求者に、自らの内にある偉大な自己に向かって祈ることを勧めます。心からの祈りは、常に応えられるものだからです。
実践者は、自分が前進していることをどのようにして知るのでしょうか。
内的な探求の道における進歩は、外の世界での進歩とは同じではありません。内なる道において前進するとは、平穏と喜びに満ちたマインドが育っていくことを意味します。実践者は、落ち着きを失ったり、過度に高揚したりすることがなくなっていきます。このような内側の体験そのものが、実践者が前進していることを示す十分な指標となります。探求者はまた、精神性の道において、同じ志を分かち合う人々と出会うことになります。というのも、自然の法則として、同質のものは同質のものを引き寄せるからです。
瞑想は、感情的な問題を癒すことができるのでしょうか。
瞑想は、体系的に実践されるのであれば、あらゆる方法の中で、最も高い次元の療法と言えます。実践を重ねる中で、実践者は徐々に、自分の問題や恐れ、そして習慣的な思考や行動のパターンに向き合い、扱えるようになっていきます。人は誰もが前進する力を持っており、揺るぎない決意と誠実さをもって自分の道を歩むなら、たとえ非常に大きな問題であっても向き合い、乗り越えるための十分な力を備えています。もし、人としてできる限りの努力を尽くしても、なお内側に平安が見いだせない場合には、すべてに共通する自己、すなわち生命の根源に自らを委ねなさい。そのような自己の明け渡しは、あらゆる方法の中でも最も高尚なものです。
瞑想の実践に、危険はありますか。
瞑想そのものは、決して危険なものではありません。しかし、準備が整っていないまま目を閉じ、空想や幻覚にとらわれているだけであれば、それは時間とエネルギーの無駄になってしまいます。大切なのは、全体の方法を理解し、徐々に「内側を見る人」としての訓練を積んでいくことです。私たちの多くは、外の世界においてのみ、学び、観察し、確かめるように教えられてきました。しかし、内側を見つめ、内側に見いだし、内側を理解することは、まったく異なる道です。そのため、瞑想を体系的に学び、実践することには大きな意味があります。
多くの指導者が、自分たちの方法こそが近道であり、他の方法は時間がかかるものだと主張します。しかし、近道や遠回りといったものは実際には存在しません。その道の進み方は、すべて実践者自身の力量、誠実さ、そして決意にかかっているのです。そのような宣伝や誇張、売り込みに惑わされてはいけません。自分自身と向き合い、地道に取り組みなさい。
瞑想が深まっているときには、どのような兆しが現れるのでしょうか。
瞑想は、マインドを一点に集中させ、内側へと向かわせます。日常の務めを整理し、それらが妨げとならないようにでき、なおかつ瞑想を規則正しく、時間を守って実践していると、瞑想は特別なかたちで実りをもたらすようになります。そのとき、マインドは洞察力を備え、一点に集中するようになり、より微細な次元のいのちについて理解し始めます。これらが、瞑想が深まっていることのしるしです。
どのようにして、マントラに対する感覚や親しみが育っていくのでしょうか。
最初のうちは、ただマントラを繰り返すという技法に従って実践してください。やがてそれが生活の一部となり、習慣として定着してくると、自然と喜びを実感するようになります。人は、自分の身についた習慣を大切にし、愛着を持つようになるものです。そして、ジャパが生活の中で欠かすことのできない習慣となったとき、実践者はマントラに引き寄せられ、そこに深い喜びを見いだすようになります。
瞑想の最終的な到達点とは何でしょうか。私たちは何を期待すればよいのでしょうか。
書物では、最終的な到達点はサマーディの体得であると述べられています。サマーディにはさまざまな段階がありますが、ここでお伝えできるのは、瞑想を実践する人は、最高の智慧の境地に至る可能性を十分に備えているということです。その境地では、マインドはもはや問いを発することがありません。なぜなら、あらゆる問いがすでに明らかになり、すべての問題が解消されているからです。この喜びに満ちたマインドの状態は、外の世界に穏やかさをもたらし、内側には揺るぎない平穏をもたらします。そのような実践者は、常に真理への気づきを保ち、恐れを抱くことがありません。ひと呼吸ごとに生命の根源を想起し、世にありながらも、世俗の混乱に左右されずに生きているからです。
誠実な実践者が、最終的な目標に到達するまでには、どれくらいの時間がかかるのでしょうか。
それは、実践者の内的な状態の質や、決意の強さ、そして瞑想の実践をどれほど時間を守り、規則正しく続けているかによって左右されます。中には、最高の境地に到達したいという思いに高揚し、感情的になって、数日間は熱心に実践するものの、やがて関心が薄れ、実践をやめてしまう人もいます。しかし、規則正しく、揺るぎない決意をもって瞑想を続ける人は、確実に、比較的短い時間のうちに、最高の智慧に至ります。実践者は、内的な体験への幻想や、奇跡への期待、さまざまな欲求を抱きがちですが、それらが役に立たないと理解したとき、それらを手放し、迷いのぬかるみを越えて、光の道を歩み始めるのです。






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