マントラとは何か ― その意味と目的
- AHYMSIN Japan
- 2月7日
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2025年2月3日 公開
スワミ・ヴェーダ・バーラティ 著
私たちは幼少期から、外の世界にあるものを「見る」「調べる」「検証する」よう訓練されてきました。しかし、イニシエーション、すなわちマントラを授かるということは、内側を見ること、内側を見つめることへの一歩です。それは宗教的な儀式ではありません。マントラや瞑想を宗教と混同してはいけません。両者は宗教とはまったく別のものです。
マントラとは、音、音節、あるいは音の組み合わせです。それは意味によってではなく、その振動によって知られます。マントラはマインドの焦点となり、人が自らの内的状態に気づくのを助けます。それは自己を理解する方法であり、外側の言葉と内側の言葉とを調和させる手段でもあります。
マントラは、マインドが一点に集中するのを助け、ゆっくりと深い静寂へ、内なる意識の中心へと導く友です。それは自己という土壌に蒔かれた霊的な種であり、存在のさまざまなレベルを通って、最終的には個の意識と宇宙意識の合一へと導く治療的な導き手です。
マントラは、自己覚醒の道における重要な手段です。定期的に瞑想を行い、自分のマントラを思い出し、それを人生の一部とすることが勧められています。
瞑想のときには、マントラを静かに、意識的に用いなさい。それ以外のときには、意識的に、あるいは無意識のうちに用いてもかまいません。やがてあなたは、マントラが日常生活の中であなたを導いていることに気づくでしょう。
~ ヒマラヤのスワミ・ラーマ
ラージャ・ヨーガ、すなわち「王道のヨーガ」は、『パタンジャリのヨーガ・スートラ』に説かれている完全なヨーガであり、スヴァータマーラーマのようなハタ・ヨーガの偉大な著者たちでさえ敬意を表しています。ヒマラヤのマスターたちによって実践的に解釈され、体験とイニシエーションを通して伝えられてきたこの流れは、「ヒマラヤ伝統」と呼ばれています。しかし、生きた伝達がなければ、パタンジャリは理解され得ません。そのため、学生への最初の伝授は、集中のためのソナー(音響)単位としてのマントラなのです。
「マントラ」という言葉¹
「マントラ」という言葉は、英語の man、および mind、mental と関係があります。これらはラテン語の mens(マインド)に由来し、さらにギリシャ語の menos(マインド)へと遡ります。menos、mens、mental、mind、man、そして mantra はすべて、サンスクリット語の語根 man(「瞑想する」)に由来します。
「人(man)」とは、瞑想することのできる存在です。人はマインドを持ち、それによって瞑想します。そして瞑想のために「マントラ」という言葉に集中します。インドやアジアの他の地域では、マントラは文化の中心にあり、人の人生にとって極めて重要なものです。マントラを持たない人は、塩の入っていないダール(インドの豆料理)のようなものです。何かが欠けているのです。人はマントラなしでは不完全なのです。
マントラとは何か²
マントラとは、一つの言葉、あるいは一連の言葉です。それは思考であり、祈りでもあります。ただし、一般的に使われる意味での祈りではなく、低次の意識と高次の意識―私たちが神的意識、あるいは神的生命力と呼ぶもの―とを結びつけるものです。
マントラは音の単位であり、思考の単位です。それは特定の霊的目的のために、ヨーガの学生や弟子に与えられる音、あるいは音の連なりです。意識の内的な網の目を描いた地図において、意識のエネルギーは二つの形―音と光―を取ります。ある段階では、音と光のエネルギーは絡み合い、あるいは統合されています。しかし、私たちの現在の発達段階では、それらは別々に体験されるため、まず音としてのマントラから始めます。光へのイニシエーションは、少し後になってから訪れます。
当初、マントラには理解すべき二つの側面があります。一つは、音節の組み合わせとしてのマントラが、特に心の中で繰り返されたときにマインドに特定の影響を与えるという点。もう一つは、その意味です。
繰り返される音の効果
マントラの理論は、音、文字、音節がそれぞれ、特定の心理的・精神的振動の焦点を内包しているという原理に基づいています。各音節は、それぞれ特有の意識の光線を内に秘めています。特定の文字や文字の組み合わせを思い浮かべると、それに対応する思考やマインドの振動が生じます。音にはそれぞれ特有の質感や「味わい」があります。
言葉に対する思考とは、マインドの振動そのものですが、すべての振動が同じではありません。異なる音節は、異なる振動の力の焦点を担っています。これは、言葉の音によって、ある程度粗雑な形でも観察することができます。
たとえば、私が英語の通じない外国にいるとしましょう。少し気まぐれな気分でホテルを出て通りを歩き、向こうから人がやって来ます。その人は英語を知りません。私は彼に近づき、荒々しくこう言います。「ドン!」
彼は意味は分かりませんが、その音は彼のマインドに何らかの衝撃を与えます。翌日、私はその人を驚かせてしまったことを後悔し、埋め合わせをしたいと思います。そして通りに出て、最初に出会った人(この人も英語を知りません)に、今度は優しく「ルル」と言います。
この二つの音の違いは何でしょうか。「ドン」と「ルル」という音は、質的にまったく異なります。詩人や熟練した作家はこのことをよく理解しており、作品の中で音を巧みに用います。音そのものが、翻訳とは無関係にマインドに影響を与えるのです。マントラも同様に、それぞれ独自の音の振動を持っています。
エネルギーの力としてのマントラ
さらに一歩踏み込んで考えてみましょう。この宇宙全体は、意識ある力によって動かされています。それらを、天使、神格、化身、神の顕現などと呼ぶ人もいます。マントラの音は、こうした特定の意識の形態、あるいは側面を表しているものなのです。したがって、この伝統においては、マントラを、神性の力が音として表れた「音響的な形態(ソナーのようなもの)」として捉えます。キリスト教の一部の伝統や、スーフィズム、あるいはユダヤ教のカバラの伝統の中にも、「神の名そのものが神である」と語られる教えがあります。
より具体的に言うなら、個々に分かたれたそれぞれのマインドには、固有の構成があります。そのマインドの中には、幾多の生にわたる痕跡が蓄えられています。これを私たちはサンスカーラ(samskara)と呼びます。私たちが行うあらゆる行為、抱くあらゆる欲望、湧き起こるあらゆる衝動は、すべてこれらの痕跡から引き出され、活性化されます。過去から積み重なったこれらの痕跡の総体が、私たちの人格を形づくっているのです。
もし私たちが自らを洗練させたいと願うなら、この痕跡のパターンを変えていくことを学ばなければなりません。たとえば、半分ほど冷たい水が入ったコップに熱い湯を注げば、水の性質は変わります。同じように、もし苦味のある思考へと導く痕跡を持っていたとしても、マインドを甘くする一つの中心的な思考―音としてのマントラ―を、毎日何時間も、繰り返し、繰り返し注ぎ続け、これを十年、十五年、二十年と続けていけば、マインドは新たな刻印を受け取り、必ず変化していきます。
このようにして、マントラは私たちの本性そのものを変え、より洗練された、穏やかで、静かなものへと導きます。ある人の痕跡の総体が、混乱した思考へと傾いている場合には、鎮静のマントラが与えられます。逆に、あまりに受動的である場合には、活性化するマントラが与えられます。そして、そのマントラが何度も何度も想起されることによって、同じマントラの刻印が、人格に望ましい変化をもたらすのです。
神性の名であり、その音響的な身体でもあるマントラは、マインドのより深い層にまで深く刻み込まれ、「人間的なもの」は次第に明け渡され、神的存在の臨在に道を譲っていきます。マントラとともに行う瞑想とは、言葉を超えた祈りの体験であり、献身の感情と実践において最も微細な次元に触れるものです。それは、「私のものではない」「すべては御身のもの」「ただ御身のみ」という在り方を究極まで体現する行為であり、その結果、人格全体が神の住まいとなり、神性の器となり、神性のみがそこを通して働く形となるのです。
ゆっくりと。すべては、しかるべき時に。この実践は、マントラを「唱える」ことをやめ、内奥から自然に立ち現れるのを許し、それを内側で聴くようになったときに始まります。³
人格と目的に応じたマントラ
ある人は反論するかもしれません。「私は今の自分が好きなんだ。人格を変えたいとも思わないし、誰にもそれに干渉してほしくない」と。しかし、たとえ個人的なマントラを受け取らなかったとしても、呼吸に意識を向け、「ソー・ハム」とともに行うようなごくシンプルな瞑想でさえ、あなたの中に変化をもたらします。ただし、それは個人に授けられるマントラほど強力ではありません。
個人的なマントラ―ディークシャ(入門)あるいはグル・マントラと呼ばれるもの―が授けられるとき、それは、伝統という普遍的なマインドから一滴をすくい取り、その一滴、その「種」を、入門者のマインドに植えるようなものです。それが「入門」と呼ばれるのは、たとえそれがどれほど小さなものであっても、師から弟子へ、弟子から弟子へと受け継がれてきた系譜を通じて、ある種のエネルギーが実際に伝えられるからです。
紀元前14世紀頃に成立したとされる『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』には、誰が誰に教えたかという師資相承の系譜が記されており、六十八代にわたる教師の名が、一人また一人と連なり、最初の存在であるスヴァヤンブー・ブラフマン――自己存在の至高者――にまで遡っていきます。「その自己存在の至高者に礼拝あれ」と、ウパニシャッドは語っています。
このように、マントラとは、音であり、思考であり、言葉であり、古代のリシ(聖仙)たちが、究極の瞑想状態であるサマーディの中で、意識の内に啓示として受け取ったものなのです。マントラは魂の内に啓示として目覚め、そして系譜を通じて伝えられてきました。
人によって、与えられるマントラは異なります。では、それはどのようにして決まるのでしょうか。ここで、ヨーガの伝統の歴史について少し触れておく必要があります。ときどき人は、「超越瞑想(トランセンデンタル・メディテーション)はどうなのですか。TMはヨーガの伝統の中でどこに位置づけられるのですか」と尋ねます。「トランセンデンタル」という言葉は、という言葉は現代的な表現であり、サンスクリット語ではありません。それは、別の何かを訳した言葉にすぎません。また、ある人はこう尋ねます。「禅の瞑想はどうでしょうか。ヨーガの瞑想と比べて、どのような違いがありますか」。
紀元前3000年頃のインドは、19世紀のアメリカのように、開拓者たちの国でした。さまざまな方向から人々が移動し、森を切り開き、定住し、都市や宗教を築いていきました。しかし、深い哲学的探究心をもつ人々の中には、そうした営みから身を引き、森や山の洞窟に庵を構え、修行生活を送る者たちもいました。彼らは、自らの内において、自己征服と自己探究の過程に取り組んだのです。村や都市の生活に疲れ、心の平安を求めるようになった人々は、こうした隠遁の師、偉大なマスターたちを訪ね、しばらくその足元に留まり、心の安らぎや指針、そして智慧を授かりました。そして再び町や村に戻り、世俗の生活を続けたのです。これらの庵のいくつかは、やがて偉大な大学へと発展しました。
たとえば、紀元前4世紀にインドへ侵攻したマケドニアのアレクサンドロス大王は、当時二万人以上の学生が居住していたタクシャシラー大学の近くまで到達しています。しかし、そこでは学問が霊性から切り離されることはありませんでした。学びは常に人格の訓練を伴っていたのです。学生期(ブラフマチャリヤの段階)においては、社会に益する生き方、人としての目的を果たす方法、そして霊的に成長する道が、すべての人に教えられていました。
ヨーガ体系の創始者であるヒマラヤの偉大なマスターたちは、その直観的な知と智慧によって教えを伝えてきただけでなく、自らを実験台として探究を行いました。私たちがどのような思考を抱くかが、人格を形づくるからです。通常、私たちは一つの思考に留まり続けることができません。思考は一貫性を欠き、散漫で、無秩序です。マントラの実践とは、ただ一つの思考を取り上げ、その一つの思考に一貫して留まり続けることで、マインドに一定の影響を与える訓練なのです。
そこで、ヨーガ伝統の偉大なマスターたちは、弟子に向かってこのように語るかもしれません。「息子よ、君の内にはまだ火の力が十分ではない。そこで、火のマントラを授けよう。炎―ろうそくの炎―のそばに座り、それを見つめながら、呼吸とともに、この特定の火のマントラを心の中で想起し、あるいは内側で聴きなさい。そうすれば、六か月ほどで、君の人格にはきわめて前向きな変化が現れてくるだろう。」また別の弟子には、こう告げられるかもしれません。「君に欠けているのは、水のもつ涼やかさと流れである。だから、流れる水のそばに座り、瞑想しながら、水のマントラを授けよう。」このようにして、時をかけて、視覚的な印象と、集中をもって一貫して想起され続けた一つの思考とが相まって、弟子の人格に、きわめて微細ではありながらも、確かな変化がもたらされていったのです。
人格は徐々に変化する
人間の人格の変化は、一夜にして起こるものではありません。今夜、寝る前に鏡を見てください。そこに映る自分の顔を、よく見てみましょう。翌朝起きて、その顔は一晩で変わっているでしょうか。いいえ、変わってはいません。同じ顔です。翌日の夜にもう一度見てみても、その日一日を通して、やはり同じ顔です。翌朝も、翌晩も、その次の日も、変わらず同じ顔がそこにあります。五年後、十年後に、今日撮った自分の写真を取り出してみてください。いったい、どの夜に寝て、翌朝まったく別の顔になっていたでしょうか。人間の人格の変化とは、このように、非常に微妙で、ほとんど気づかれないかたちで起こるものなのです。
瞑想を始め、マントラを授かった人の多くは、心の変化があまりにもゆっくりであるため、すぐに結果を求めてしまいます。あるとき、電話をかけてきた人が、こんなことを言いました。「三か月前にマントラを授かりました。私はいつ悟りを得られるのですか?」霊的に成長し、一定の実践を積み重ねていくこの過程は、サーダナ(sādhana)と呼ばれます。それは一般に、ゆっくりと、穏やかに、段階を追って進んでいくプロセスです。吸収すべきものがあまりにも多いため、急ぐことはできません。それでも人は、ついせっかちになってしまうのです。
マントラのさまざまな用い方
意識の核へと至る道は、ひとつではありません。それこそが、瞑想というものです。真の自己へと至る道もまた、多様であり、人格の違いに応じて、さまざまな瞑想法や技法が説かれてきました。ある人は、ろうそくの炎に集中します。ある人は、特定の呼吸法を用います。別の人は、マントラの音に耳を澄ませます。またある人は、一定の音階や旋律とともにマントラに集中します。あるいは、マントラの実践と同時に、特定の意識の中心に集中するよう教えられる人もいます。
今日では、多くの人がまず簡単なマントラから始め、一定の期間を経て、より複雑なマントラの実践へと導かれます。ときには、ある一定期間、内的集中のみで、あるいは火の供養(護摩)とともにマントラを実践することもあります。それは、実践を十倍強力なものとし4、特定の霊的な結果を得るためです。これは、ひとつの特定の思考をマインドに刻印する方法なのです。その刻印を通して、どこかで一つの扉が開き、探求者がどこにいようとも、次の一歩は、少しずつ自然に近づいてくるのです。
ラージャ・ヨーガとその分岐した道
ヨーガのヒマラヤ伝統を打ち立てた偉大なマスターたちは、自己を克服し、自己を探究し、そして私たちの最も高次の意識の核心へと至る、あらゆる道を体得していました。しかし、彼らが育てたすべての弟子が、瞑想のあらゆる領域を等しく修めることができたわけではありません。ある者は、長いあいだ身体的ヨーガのみを実践しました。またある者は、音への集中に強く反応しました。さらに別の者は、光への集中によって成果を上げました。彼らは、より大きな体系の中の特定のシステムの達人となり、それぞれ独自の学び舎やアシュラムを築いていきました。
こうして今日、ハタ・ヨーガ、ナーダ・ヨーガ、ラヤ・ヨーガなど、さまざまなヨーガの分派が存在し、学び手たちは特定のアシュラムに身を落ち着け、しばらくの間、一つの道を実践するのです。すると、ある学生はこう考えるようになります。「これこそが最良の道だ」と。なぜそう思うのでしょうか。それは、その道が自分に合っており、助けになっているからです。「私はそこから大きな恩恵を受けている」と彼らは言います。しかし、別の人はこう言います。「あの人たちの道?私はそこにいたし、試してもみた。でも、私には何も起こらなかった。」
偉大なマスターたちの弟子たちは、確かにそれぞれの特定の体系においては達人でしたが、それらすべてを統合したラージャ・ヨーガ―王道(ロイヤル・パス)、すなわち全体系を包摂する主流の道を修め得た者は、きわめて少数でした。ラージャ・ヨーガには、非常に多様な方法がありますが、それらはすべて、元来の一つの体系のもとにあります。この偉大な全体構想の中には、個々人に適した多くの体系、方法、そしてマントラが存在します。そのため、私たちの伝統では、ラージャ・ヨーガ―ヨーガの王道―から修行を始めるのです。
多くの都市や国で、私はこう尋ねられてきました。「あなたの体系は、禅と比べてどうなのですか?」
この問いに、私はどう答えればよいのでしょうか。そこで私は、謙虚さをもってこう答えます。「禅において知られていることは、すべてヨーガにおいても知られています。しかし、ヨーガにおいて知られているすべてが、必ずしも禅において知られているとは限りません。」TM(超越瞑想)を例にとってみましょう。特定のマントラを選び、特定の方法で用いることは、マントラの正当な使い方の一つです。マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがアメリカやヨーロッパに渡り、多くのものをもたらしたとき、広報担当者たちは彼にこう言ったに違いありません。「聞いてください、ヨーギー。この膨大な智慧や哲学の洪水は、ここでは受け入れられません。少しだけ取り出して、うまく包装する必要があります。魅力的な包みに入れ、適切な価格をつけ、いくつか気の利いた付加価値を添えて、『三年後には悟れる』とか、『別の意味で利益がある』と人々に伝えるのです。」しかし、それはヨーガ体系全体の中の、ほんの一断片にすぎません。
ヴィパッサナーについて言えば、私が出会った多くの実践者は、感覚―とくに身体感覚―に縛られています。私は、25年も瞑想を続けていながら、身体感覚を超えられない人たちを見てきました。本来は超えられるのです。しかし、彼らの指導者の多くが、ナーマ・ルーパ(名と形)を超えて導く方法を知らないのです。禅も同様です。マントラを認める禅の流派もありますが、多くの禅の修行者は、思考を超えることに困難を覚えています。本来、これらすべての体系は、マハーヴァーキヤ(大句)のヴェーダーンタ的観想と、マントラによる瞑想の中に統合されるべきものです。両者が統合される地点があり、その地点は、実際に体験されなければなりません。ヒマラヤ伝統の美しさは、すべての体系を統合していることにあります。それらを人工的に寄せ集めて統合するのではなく、もともと一つの体系から生じ、そこからそれぞれが独自の方向へと分岐していったものなのです。
イニシエーションにおいて、マントラはどのように選ばれるのか
マントラとは、個々の人にふさわしい一音、あるいは一連の音節です。ここで、ある人は導師(イニシエーター)にこう言うかもしれません。「あなたは、私の名前すらほとんどご存じないではありませんか。どうやって私に合ったマントラを選ぶのですか?」知には、大きく分けて二つのプロセスがあります。ひとつは理性的なプロセス、もうひとつは直観的なプロセスです。
まず最初に問いかけるべきは、「あなたは誰なのか?」ということです。多くの人は自分の名前と自分自身を同一視し、「自分=自分の名前」だと思っています。しかし、あなたの名前は、あなた自身ではありません。あなたの名前は、どこから来たのでしょうか。
たとえば、三千年後の非常に進んだ文明に生まれ、人々が番号しか持たない社会や、名前を秘密にしなければならない社会だったとしたらどうでしょう。さまざまな可能性が考えられます。あなたは母親の胎内から生まれ出てきて、「私はメアリーです」と言ったわけではありません。おそらく、一歳半か二歳頃、あなたの内側の何かがこう気づいたのでしょう。「人々が『メアリー』という言葉を言いながら、私を見る。『メアリー、こっちに来なさい』『メアリー、これをしなさい』『メアリー、あれをしなさい』―どうやら、私の名前はメアリーらしい。」「お名前は?」「メアリーです。」これは条件反射のようなものです。あなたの名前は、あなたそのものではありません。
人には、いくつかの人格タイプがあります。この事実自体が、一つの科学を成しています。誰もがそれぞれに、強みと弱みを持っています。ヨーガの科学を理解する人々は、人格タイプを見極める訓練を受けています。なぜなら、マントラは特定の人格タイプに対応して授けられるものだからです。イニシエーターとは、マントラの科学と、人間の人格の側面の双方に通じた者なのです。
しかし、イニシエーションのプロセスは、これをはるかに超えています。マントラは、直観によってイニシエーターにもたらされるのです。あなたを導く教師は、きわめて純粋で、曇りのない、遮られたところのないマインドを持ち、瞑想の中で、あなたの人格に合ったマントラを受け取り、それを授けることができる人です。ここで、私たちは多くの人が受け入れがたい領域に、慎重に足を踏み入れることになります。ある人は、これを「神秘」と呼ぶかもしれません。受け入れるか拒むかは、あなたの自由です。信じてもよいし、信じなくてもよいのです。多くの人は、このような恩寵の働きが可能であることを受け入れられません。そのため、個人的なマントラを求めることはせず、自分が学んだ範囲での瞑想を続けていきます。ほかにも役立つ講座や学びはありますし、学んだ限りのヨーガの実践を続けることもできます。しかし、私たちの伝統においては、個人のマントラを授けることなく、高度な瞑想実践が与えられることは決してありません。
師、すなわちイニシエーターが、「あなたにマントラを授けたい」と自ら言い出すことは、ほとんどありません。それは、あなたの内側から自然に湧き上がるべきものなのです。衝動を感じたなら、あなたが願い出ます。そして日時が定められ、ごく簡素な形でイニシエーションが行われます。この衝動は、志願者自身の意識の内側から生じるものでなければなりません。それは、本人の内的な動機である必要があります。もっとも、その衝動がまだ明確に湧き上がってこなくても、少なくとも瞑想のための一定の時間を定めることは大切です。瞑想の時間を定期的に保つだけでも、あなたは恩寵の源とつながり続けることができるのです。
イニシエーションのプロセス
ヒマラヤ伝統におけるイニシエーションの儀式には、代々受け継がれてきた一定の手順があります。
それは、学生の人生における重要な節目であり、転換点を示すものです。そのため、学生は少なくとも一日前から、自らを浄めることを求められます。具体的には、菜食を中心としたサットヴァ的(純粋な)食事をとり、感情を乱す活動を避け、マインドの静けさを養います。そして、沐浴をし、清潔な衣服を身につけて、マントラを授かりに来ます。
イニシエーション当日、学生は果物と花、そしてダクシナ(師系譜への金銭的奉納)を持参します。これらの供物は、ルーパ(視覚)、ラサ(味覚)、ガンダ(嗅覚)、スパルシャ(触覚)、シャブダ(聴覚)―すなわち五感を象徴しています。それは、感覚的な楽しみを放棄するという意味ではなく、霊的な成長という、より大きな恩恵のために、それらを調和の中に位置づける意志を示すものです。
イニシエーションの儀式が行われる場において、学生はしばらく静かに、瞑想的に座ります。その後、イニシエーターが瞑想している部屋へと導かれます。学生と教師は短時間、共に瞑想し、その後、マントラが授けられます。通常、マントラは学生の右耳にささやかれ、その後、さらに数分間、共に瞑想が続けられます。最後に、学生への祝福をもって儀式は終わります。これは、最も高い次元での「与え、分かち合う」プロセスです。学生は、真理を求め、自己探求(サーダナ)の旅へと踏み出すための信頼と意志を捧げます。教師は、師の系譜から流れてくる恩寵を通して、マントラと、学生の霊的成長を助けるという約束を授けるのです。
人生における安定した力としてのマントラ
マントラの考え方とは、自分の内に、特別な一つの言葉を持つことです。ある流派では、一日に二十分だけマントラを用いればよいと教えています。しかし、スワミ・ラーマによって伝えられているラージャ・ヨーガの伝統においては、マントラは、あなた個人の友となるものです。あなたは、常にマントラをマインドの中に保ちます。バス停に立っているとき、診察や約束を待っているとき、車を運転しているとき、あるいは、心を中心に戻したいと感じる、あらゆる瞬間に。マントラは、あなた自身のものです。それは常にあなたと共にあります。一つの言葉、あるいは一つのフレーズとして、いついかなるときも、あなたと共にあるべきものなのです。
今のあなたのマインドの中には、外界から集めてきた、無数の雑多な思考や印象があります。外から入ってくる何かが、あなたを興奮させ、苛立たせ、動揺させ、あるいは恐れを生じさせます。しかし、マントラはあなたの内側にあるものです。それは、外から来たものではなく、内からのものです。世界全体が、あなたに向かって不安定な印象を次々と投げかけてくるその中で、あなたの内には、そこから離れてはならない、恒久的な焦点が存在します。それがマントラです。
そのように用いるには、練習と習熟のための時間が必要です。しかし、やがてマントラは、外から投げかけられるあらゆる刺激や動揺に対して、立ち戻ることのできる静かな友となっていきます。マントラを十分に繰り返し想起するようになると、それは潜在意識の一部となります。マントラは、瞑想への扉となります。なぜなら、それ自体が焦点であり、中心点だからです。こうして、マントラの実践そのものが、瞑想となるのです。
マントラの用い方を学び、つながりを保ち続けていると、やがて、より先へ進むために方法が変えられることがあります。「これまでは、このように行ってきました。 今度は、次の段階へ進みなさい。」
と導かれることもあるでしょう。一方で、何年ものあいだ、何も変わらないこともあります。しかし、他人と自分を比べてはなりません。誰かが別の方法を与えられたからといって、自分も別の方法を受けるべきだと感じる必要はないのです。あなたが授かっている一つの方法が、あなたにとって十分に有効である場合もあります。それは、個人差によるものであり、また、その人が伝統や教えの源と、どのような関係を保ちたいかにもよるのです。
マントラを秘すること
マントラを授かった後、それは秘されるべきものです。マントラは秘し、そして実践し、実践し、実践しなさい。マントラの内的実践には、段階的に洗練されていく多くのステップがあり、それらは徐々に教えられていきます。あなたが守るこの秘匿は、マウナ(沈黙の修行)の一形態です。マントラは、内的な没入のためのものです。言葉として口にした瞬間、力は失われます。
だからこそ、マントラはマインドの中にのみ保たれます。胸の奥に、マインドの奥深くに、大切に抱いてください。歩いているときも、眠りに入ろうとするときも、目覚めるときも、浴室にいるときも、さらには、愛する人の腕の中にいるときでさえも。マントラは、あなたの静かな友となります。それは、やがてマインドの本質そのものとなっていきます。それを意識しているときもあれば、意識していないときもあるでしょう。
導師―イニシエーター、教師、指導者―の務めは、あなたを導き、準備が整ったときに、次の段階を授けることです。もしその教師の伝統が真にヒマラヤのものであるなら、学生の準備が整ったとき、内なる光、チャクラや意識の中枢、あるいはクンダリニーへと導くイニシエーションや指導が与えられます。学生は、つながりを保ち続けることを勧められます。そのつながりは、手紙やファックス、Eメールによって維持される必要はありません。毎日、一定の時刻に座して瞑想することによって保たれるのです。
すると、言葉にはならない、きわめて微細なつながりが感じられるようになります。ある人がマントラを授かり、数年間はつながりを保っていたものの、やがて人生の波や流れの中に紛れてしまうこともあります。しかし、十五年、二十年後に、再び教師や師の系譜とつながりたいという衝動を感じることもあります。そのとき、その人は手紙を書き、こう言うかもしれません。「私のことは、もうお忘れかもしれません。けれども、私のマントラは、一度も私を離れたことがありません。」マントラは、あなたの霊性という大樹が成長していくための、種子なのです。
※編集者注
「マントラ」という言葉のより詳細な分析については、スワミ・ヴェーダ・バーラティ著『Sutra and Mantra』を参照してください。
マントラの包括的な解説については、スワミ・ラーマの著作、およびウシャルブッダ・アーリヤ(スワミ・ヴェーダ・バーラティ)著、Mantra and Meditation(Himalayan Publishers, 1981)を参照してください。
ジャパ(マントラ想起)の霊的変容の力を示す並行的な書として、スワミ・ラムダス著 In Quest of God、およびキリスト教の古典『ある巡礼者の告白(The Way of a Pilgrim)』があります。
詳細については、スワミ・ヴェーダ・バーラティ著 Special Mantras を参照してください。

出典(原文)
Swami Veda Bharati, Mantra – What and Why
© AHYMSIN – Association of Himalayan Yoga Meditation Societies International
Original text published on the official AHYMSIN website:
※本記事は、AHYMSIN公式サイトに掲載されている英文をもとに、日本語に翻訳したものです。






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